赤松小三郎関係資料

2 赤松小三郎事績関係史料

(1)4つの建白書(概説)
 赤松小三郎は、慶応2年(1866)から慶応3年(1867)にかけて、➀上田藩への藩政改革意見書(文久3年(1863))、②幕府あて建白書(慶応2年(1866))、➂上田藩主あて建白書(慶応2年(1866)、➃「建白七策」(慶応3年(1867)の4つの建白書を提出しました。

➀上田藩への藩政改革意見書(文久3年(1863))
 赤松小三郎は、文久3年(1863)、上田藩(重役)あて、藩政改革・軍制改革についての建白書を提出しました。この意見書では、世上の形勢を察すること、藩政改革を断行する人材を育成すること、兵学家を育成することなどが必要だとし、藩の重役が率先してことに当たらなければならないとしました。
⇒・「柴﨑新一「赤松小三郎先生」」(p55)
 ・ 国立国会図書館デジタルコレクション
赤松小三郎先生-国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)
 ・「赤松小三郎・松平忠厚-維新変革前後 異才2人の生涯―」(上田市立博物館)(2000年)(pp16~18)
  
② 幕府あて建白書(慶応2年(1866))8月
 赤松小三郎は、慶応2年(18666))8月、幕府にあてて、時事を論じた建白書を提出しました。この建白書では、長州藩征討に勝算がないことは明らかだとするとともに、幕政における全国レベルでの人材登用、英米に準じた陸海軍の創設、軍制における市民平等の人材抜擢等が緊要だとしています。
⇒・上田市マルチメディア情報センター
建白書解説ビューアー - 赤松小三郎 幕末の洋学者・議会政治の提唱者(umic.jp)
 ・「赤松小三郎・松平忠厚-維新変革前後 異才2人の生涯-」(上田市立博物館)(2000年)(pp29~30)
  
➂上田藩主あて建白書(慶応2年(1866))9月) 
 赤松小三郎は、慶応2年(1866)9月、上田藩主(松平忠礼・当時17歳)にあてて、藩主主導の藩政改革を訴える建白書を提出しました。この建白書では、身分にとらわれない人材登用が必要であること、藩主自らが軍学修学・軍政改革を行うべきこと、藩主自身により富国強兵のための藩政改革を行う必要があることなどを上申しています。
⇒・上田市マルチメディア情報センター
建白書解説ビューアー - 赤松小三郎 幕末の洋学者・議会政治の提唱者(umic.jp)
 ・「赤松小三郎・松平忠厚-維新変革前後 異才2人の生涯-」(上田市立博物館)(2000年)(pp30~32)
 
➃「建白七策」(慶応3年(1867)   
⇒(2)参照
 
(2)「建白七策」(慶応3年(1867))
(建白七策の提出)
 赤松小三郎は、慶応3年(1867)5月、前政事総裁職(前福井藩主)松平春嶽にあてて、7項目にわたる建白書(以下「建白七策」)を提出しました(「続再夢紀事」)。
 また、ほぼ同内容の建白書を、薩摩藩国父島津久光や藩主島津茂久に提出しましたが(「玉里島津家史料」)、幕府あてにも提出したものとみられます(盛岡藩「慶応丁卯雑記」)。
(建白七策の要点)
 建白七策の要点は、次のとおりです.
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1 天幕御合体諸藩一和
 朝廷と幕府とが合体し、諸藩も一体化する国体を確立する根本は、朝廷の権限を強化し、徳を備えること。そして、公平に国事を議し、国中に実行させることのできる命令を下して誰もそむくことのできない局(議政局)を設けること。
 天皇を補佐する宰相(大臣)を、将軍、公卿、諸侯、旗本から6人選び、大閣老は国政全般、その他宰相は財政、外交、陸海軍の軍事、司法、徴税を分掌させ、官吏は家柄に関係なく人選。
 上下二局の議政局を設置。両局の議員は、門閥や貴賤にかかわらず、道理を明らかにし、私欲がなく、人望のある人物を公平に選ぶ。 下局は、各国の大小に応じた人数を選挙により130人選び、上局は、公卿、諸侯、旗本の選挙によっておよそ30人選出。
 議政局の決議は、天朝の許容により国中に命じるが、天朝の反対があっても、議政局の再決議が優先。議政局では、国際的に普遍的な法律を定め、官吏を人選し、法律を制定。
2 国是としての人材教育
 人材教育は国是で、江戸、京都、大坂、名古屋、函館、新潟等に大小学校を建設して西洋人教員を雇用、有志の者を教育。大坂に兵学校を建て、西洋人を雇い、国中の兵事に有志の者を教育。法律学、度量学を盛んにし、学校を増し、人材教育を行うことが治国の基礎。
3 人民平等、個人としての尊重 、職業選択の自由、納税の義務
 国中の人民は皆平等で、それぞれの性に合わせ、存分に尽くさせ、百姓の税負担を減らし、諸民諸物に税金を課し、遊楽不要の諸業諸品には税率を高くする。
 諸民平等に職務に尽力し、武士は特に仕事に励ませ、遊民等には有用の職業を授ける。  
4 通貨政策(通貨制度を改め、欧米モデルの世界に通用する通貨を鋳造)
・国中の貨幣を統一し、これまでの運用金銀をすべて万国普通の銭貨に改める。(銭貨は、円形に作る。)
・銀貨、金貨、銅貨の割合を西欧各国に合わせる。
・銭貨が不足しないよう増やして、物品製造を盛んにする。
5 陸海軍整備 (少数精鋭の専守防衛的軍隊の創設)
・治世と乱世に分け、貧富に応じて兵備を算定すること。
・兵の数は少なくし、利器を備え、熟練させること。
・陸軍は、常備の兵数は、都で約2万8千人(うち歩兵約2万2千人、砲兵約4千人、騎兵約2千人、他は築造・運輸等の兵)で、直ちに幕臣・諸藩より熟兵を出させ、4年ごとに交代させること。 
・常備の兵は京都・大阪・江戸の警衛に当たらせること。このほか、この地での平常操練や士官学校での学問を行わせること。
・武士も、望みに応じて職業商売勝手次第に行わせ、ゆくゆくは武士を減らすこと。
・海軍は、にわかには建設できないので、まず、海軍局へ西洋人を数人雇い入れ、有志の者等3千人に学ばせ、新規艦を建造し、または海外から購入して、備えること。
・当面の常備の海軍は、これまでの軍艦に人を選んで乗り込ませ、役に立つよう修復し、砲を増して、備えること。
・国力の増すに応じて兵制を改め、兵備も増し、ことに乱世には、国中の男女がことごとく兵として役立つよう備えること。
6 殖産興業 (お雇い外国人による各種産業の振興、兵器を始めとする国産化の推進、安価な製品の量産)
・諸物製造局を諸所に造営
・戦艦、兵器、諸物は、はじめは海外から取り寄せ、不足のないようにすること。
・諸物製造局を速やかに諸所に造営し、各工場に西洋人を雇って伝習させること。職人を増やして、諸物を製造すれば、安くて良い品を得ることができる。西洋人を雇うお金は、日本在留中にたいがい使ってしまうので、外国人を雇うことを嫌がることはない。
7 畜産業振興と肉食奨励
 体格の良い健康な人を育てる。良質の軍馬の飼育、牛、羊、鶏、豚の殖育。
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(建白書本文)
〇 松平春嶽あて(「続再夢紀事」)
  〇 島津久光あて(「玉里島津家史料」)
  〇 幕府あて(盛岡藩「慶応丁卯雑記」)
  (「建白七策」の意義及び諸評価)
 この建白書は、わが国で最も早く、議会政治や普通選挙の実施を含む、わが国近代化のためのグランドデザインを描いたものとして、高く評価されています。
 明治以降今日に至るまでの識者の見解・意見等は、次のとおりです。
 
(3)翻訳書
 赤松小三郎は、オランダ語、英語の語学力を活かして、4つの外国文献を翻訳しました。
➀ 「矢ごろのかね 小銃彀率(かくりつ)」
 オランダ水陸軍練兵学校の小銃についての教科書を、長崎海軍伝習所に入所中の安政5年(1858)に翻訳出版したものです。この本の出版によって、小三郎は、多額の借金を負いました。
② 訳稿「新銃射放論」
 安政4年(1855)にオランダ語の原書を翻訳しました。
➂ 訳稿「選馬説」
 オランダ語の原書を翻訳しました。
④ 英国歩兵練法
 (4)参照

(4)「英国歩兵練法」(翻訳・出版)
「1862年施條銃式英国歩兵練法」(下曽根稽古場蔵版)(全8冊)(「青本」表紙青)
 赤松小三郎は、慶応元年(1865)2月、下曽根金三郎に再入門するとともに、横浜の英国公使館付武官アプリン大尉等から英語と西洋兵学を学びました。そして、翌慶応3年(1867)3月、浅津富之助(のちの南郷茂光)と共訳で、「1862年施條銃式英国歩兵練法」を下曽根稽古場蔵版として出版しました。
 赤松小三郎は、この翻訳書の出版によって、西洋兵学者としての名声を高めました。
 
「1862年施條銃式重訂英国歩兵練法」(薩摩蔵版)(全9冊)(「赤本」表紙赤)
 さらに、赤松小三郎は、慶応3年(1867)、西洋兵学の指導に招かれていた薩摩藩の国父島津久光の要請により、1864年までの改正を加えた「1862年施條銃式重訂英国歩兵練法」を翻訳し、薩摩蔵版として出版しました。 
 島津久光は、この功により、当時最新式の「新製16響ヘンリー騎兵銃」に、特に象嵌をもってその旨を刻して、小三郎に贈りました。
⇒・「赤松小三郎先生」(pp93~107)
 ・国立国会図書館デジタルコレクション
赤松小三郎先生 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
 
(5)書簡等
➀ 家族との書簡
・父芦田勘兵衛から芦田清次郎あて書簡
 ・江戸遊学中の芦田清次郎(小三郎)に父勘兵衛からの書簡(日付不詳)
 ・「赤松小三郎・松平忠厚-維新変革前後 異才2人の生涯―」(上田市立博物館)(2000年)(p7)
・父芦田勘兵衛から兄芦田柔太郎あて書簡   
 ・慶応2年(1866)1月
・兄芦田柔太郎から赤松小三郎あて情報書
 ・文久2年(1862)10月
・兄芦田柔太郎から赤松小三郎あて書簡
 ・安政6年8月19日
 ・文久2年(?)暮
 江戸の柔太郎より、江戸及び京都の状況を知らせている。松平春嶽や勅使三条実美などの動静等が生々しく綴られている。
 ・文久2年(1862)12月15日
 ・文久3年(1863)1月24日
 ・文久3年(1863)2月21日
 ・文久3年(18633)5月19日
・赤松小三郎から兄芦田柔太郎あて書簡
 ・文久3年(1863)1月(?)
 ・慶応2年(1866)1月
 ・慶応2年(1866)10月
 ・慶応3年(1867)3月
 ・慶応3年(1867)7月
 ・慶応3年(1867)8月17日
 ・慶応3年(1867)8月20日
・赤松小三郎から実母あて書簡
 ・慶応2年(1866)5月27日
⇒ NPO長野県図書館等協議機構/信州地域史料アーカイブ
テキスト目次 / 赤松小三郎書簡 実母宛 (adeac.jp)(概要解説)
目録詳細 / 赤松小三郎書簡 実母宛 (adeac.jp)(書簡本文)
② 佐久間象山から赤松小三郎あて書簡   
 ・文久3年(1863)4月
 ・文久3年(1863)6月
➂ 八木剛介から赤松小三郎あて書簡
 ・文久3年(1863)1月25日

(6)赤松小三郎日誌
➀ 「美々婦久呂」(「長崎航行記」)(安政2年8月~9月)
 安政2年(1855)9月、赤松小三郎は、勝海舟の従者として、幕府の長崎海軍伝習所に入所しましたが、「美々婦久呂」は、小三郎が、9月3日、薩摩藩の昌平丸で品川を出航し、長崎に向かった時の海路日誌です。
⇒・「柴﨑新一「赤松小三郎先生」」(pp12~17)
 ・国立国会図書館デジタルコレクション
赤松小三郎先生 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)(概要解説)
 ・「猪坂直一解読資料」(未収録)
② 「江戸日記」
 元治元年(1864)9月~慶応元年(1866年)12月にかけて、赤松小三郎が、英蘭語、砲術、火薬、軍馬、兵式、調練、号令、草稿、天下の形勢等各般にわたり、備忘録風に記述したものです。
⇒・「柴﨑新一「赤松小三郎先生」」(pp55~67)
 ・国立国会図書館デジタルコレクション
赤松小三郎先生 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)(概要解説)
(7)上田藩史料
・明細
 上田藩士(松平家家臣)の格禄賞罰の記録。
⇒ 上田博物館「赤松小三郎 松平忠厚」(pp11~12)
・京阪御用状往復留
 京阪御用状往復留は、上田藩国元と京都上田藩邸とが交わした書状などの写しを冊子にしたものです。赤松小三郎は、慶応3年9月、上田藩の命によって滞在中の京都から上田に帰国しようとしましたが、薩摩藩士桐野利秋らによって暗殺されました。この史料は、その前後の上田藩の動き、会津藩や薩摩藩との関係などを伝える重要な史料です。

(8)幕府あて赤松小三郎採用推薦書(草稿)
・ 慶応2年、赤松小三郎を幕府の講武所(陸軍所)教官に推薦する上申書が下曽根甲斐守(信淳)から出されています。
 この上申書を受けてか、幕府は小三郎を開成所の教官として出仕させるべく上田藩に打診しましたが、上田藩は、小三郎は、上田藩の兵制一新等のために必要な人物だとして、この申入れを断わりました。
⇒ 幕府あて赤松小三郎採用推薦書(草稿)
 ・「赤松小三郎・松平忠厚-維新変革前後 異才2人の生涯-」(上田市立博物館)(2000年)(pp30~32)

(9)赤松小三郎暗殺関係史料
・ 京阪御用状往復留
⇒(6)参照
・斬奸状(写し) 
⇒・「赤松小三郎先生」(柴﨑新一)(pp132~133)
 ・ 国立国会図書館デジタルコレクション
赤松小三郎先生 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
・朝彦親王日記
⇒・「赤松小三郎先生」(柴﨑新一)(pp142~143)
 ・ 国立国会図書館デジタルコレクション
赤松小三郎先生 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
・「京在日記」(桐野利秋)
⇒「京在日記」( 田島秀隆)
・墓碑銘 
⇒・「赤松小三郎先生」(柴﨑新一)(pp137~138,139~140)
 ・ 国立国会図書館デジタルコレクション
赤松小三郎先生 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
・顕彰碑

(10)芦田柔太郎関係史料
 ・「浦賀日記」(嘉永6年6月)(未収録)
 ・「難波日記」慶応元年(?)5月~7月(未収録)
 ・「新葬畧記」慶応2年4月(未収録)

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