真田幸村公ゆかりの地を訪ねて (2011 in大阪)
荻原 貴(79期)

 11月最後の土日に大阪へ行く用事があり、ついでに真田幸村公ゆかりの地をいくつか訪ねてきましたのでご報告いたします。ちなみにこのとき大阪は「平成の大阪秋の陣」ということで府知事・市長のダブル選挙で盛り上がっていました。

  訪ねた順番 @安居神社 A茶臼山 B真田丸跡 C大阪城

 この順番・・・お分かりの方もいらっしゃるかもしれませんが、幸村公が関ヶ原の合戦後、14年間に及ぶ高野山麓九度山における屈辱の蟄居生活を経て、大坂方から乞われて大坂城に入城したのですが、「大坂城入城から大坂夏の陣で最期を迎えるまで」を、その逆の順番で訪ねました。        79期 荻原 貴
@安居神社


 大坂夏の陣で決死の覚悟で家康本陣を襲って家康の首をもう少しのところで打ち取るまでに迫りながら、力尽きてここの境内で休息中、越前松平忠直配下の鉄砲頭西尾久作に不意を突かれ落命したと伝えられる。
 1615年5月7日・享年49歳、今の私と同年令。毎年5月7日には幸村祭が執り行われるとのこと。
 幸村公の佇んでいる銅像(写真)はここだけではないかと思われる。合掌。

(最寄駅:地下鉄 谷町線/四天王寺前夕陽丘駅)

A茶臼山
 大坂夏の陣で幸村公が最期に本陣とし、ここから家康本陣へ突入していった場所。また大坂冬の陣では家康が本陣として真田丸の幸村公と睨み合った、いわば因縁の場所。安居神社のすぐ南にあり、今は茶臼山古墳として天王寺公園の一部となっている。木々茂る山(古墳)の中は自由に探索ができた。目を閉じて深呼吸すると一瞬幸村公と家康の息吹が感じられた気がした。
(最寄駅:地下鉄 御堂筋線・谷町線/天王寺駅)

B真田丸跡(心眼寺)〜三光神社
 ご存知、大坂冬の陣で幸村公が大坂城の南・玉造口近くに築いた半月形の出丸(出城)で、当時、東西約220m、南北約140〜170m、高さ約9m、外周の壕の深さ6〜8m。現在は一帯が住宅地となっており、真田山町、真田山公園、等地名こそ残るが一見「ここが真田丸跡地」とはよくわからない。
 しかし真田丸の中心地と言われる心眼寺(左)辺りから北(大阪城方面)に向かうと下り坂になっており、間もなく東西に走る「空堀通り」という当時の真田丸と大坂城の間の空堀跡にぶつかると、納得できた。
 三光神社はその空堀通りの南(真田丸跡の東)にあり、そこでは「真田の抜穴」(大坂城への連絡通路跡)と幸村公の銅像(右)を拝んで来た。
(三光神社 最寄駅:JR・地下鉄/玉造駅)

C大阪城
 三光神社から北に向かって15分ほど歩くと大阪城公園の東南の入り口(最寄駅:JR・地下鉄/森の宮駅)に到着。広い敷地に足を踏み入れると間もなく大阪城天守閣が目に入ってきた。濠と石垣のスケールに圧倒されながら途中で豊国神社で秀吉公をお参りし、いよいよ天守閣を目の当たりにしたときに、なんと二人の全身赤備えの真田武者に迎えられた。
 大坂の陣はとっくに終わっているのにご苦労様と思いながら聞けば二人は地元の方で、今日は大阪城復興80周年祭の最終日の日曜日とあって、ボランティアで”出陣”していて、春の上田の真田祭りにも”出陣”したことがあるとのこと。
 私も素性(?)を明かすと「これはこれは・・・」と快くハイ、チーズ(写真)。大阪での幸村公人気を実感した。 

 せっかくなので600円の入城料を払ってすっかり近代的な城中に入った。最上階から大阪市内を見下ろす眺めは圧巻だった。城中を見学して今回大阪城につていろいろ勉強したが長くなるので最後に一つだけ記すと、2006年に上田城と大阪城は友好城郭となっている。理由は、両城は結果こそ異なるものの共に徳川の大軍により二度の攻撃を受け、上田城では真田昌幸が、大阪城では真田幸村が大活躍したからとのこと。

 最後に、2014年、真田幸村公大坂城入城400周年に真田一族のNHK大河ドラマ実現を祈念して筆を置きます。(今まで各地で何回も?署名しました!)
追加のリポートがありました。
  荻原さん提供の幸村公の像に加えて、もう一つの幸村像を紹介します。数年前、53期の藤井真澄君が探し当て、故山岸善雄君と三人で見聞に行ってきました。個人宅の庭に建てられてあり、塀越しに撮影したものです。
 一寸長くなりますが、ご興味のある方はお読みください。
 「堀銀杏堂」(奈良県橿原市曲川)と表札にはありますが、門は閉じられており 人の出入りは殆どないようでした。仕方なく、お隣の御主人に聞いたところ 「大阪夏の陣で敗れた幸村公はここまで落ち延び 切腹して果てた。又ここにかくまって呉れたお礼に漢方薬の作り方を伝授した。証拠に堀家には幸村の愛刀<村正>が伝わっているという」家は幸村秘伝の漢方薬で財をなしたという。<村正>妖刀と言われた。家康の祖父・父共に家臣に村正で切りつけられている。息子信康が信長に切腹を命じられたとき、介錯したのも村正。従い、反家康は好んでこの村正を所持した。真田、福島、近くは新撰組など。
                                                      柳澤 清充(53期)