赤松小三郎関係資料

1 赤松小三郎の事績

(1)事績
 幕末、信州上田藩士赤松小三郎は、京都で開いた洋学塾などで多くの英才を育てるとともに、議会制度の導入などわが国の近代化に向けてのグランドデザイン(憲法草案)を描き、その実現に全力を尽くしました。
 赤松小三郎は、慶応3年(1867年)、37歳で志半ばにして暗殺されましたが、その先進的な政治思想と優れた洋学の教えは日本の近代化に大きく貢献しました。
 赤松小三郎は、天保2年(1831年)、信州上田藩士の次男として生まれ、江戸で内田弥太郎、下曽根金三郎に師事し、数学、天文、測量、暦学、蘭学、砲術を学びました。その後勝海舟に入門し、その供侍(従者)として幕府の長崎海軍伝習所で3年余にわたり航海術など西洋の最新知識を学びました。さらに横浜で英国公使館付け士官アプリン大尉などから英語、英国兵法などを学び、慶応2年(18666年)「英国歩兵練法」を翻訳して、名声を高めました。
 その後、京都で私塾を開くとともに、薩摩藩邸、会津藩教場で洋式兵学などを教え、諸藩より学ぶ門下生の数は800余名に上りました。その中には東郷平八郎元帥、上村彦之丞大将など日清、日露戦争で活躍した諸将が含まれています。また、薩摩藩国父島津久光の委嘱により、「重訂 英国歩兵練法」を翻訳しました。
 慶応3年(1867年)5月、赤松小三郎が、前幕府政事総裁職(前福井藩主)の松平春嶽、島津久光、幕府などに建言した「建白七策」は、先進的な議会制度の導入などを含む日本の近代化のためのグランドデザイン(憲法草案)を描いたもので、政治史のなかで群を抜いています。
 赤松小三郎は、「建白七策」をもとに、天幕一和、諸藩一和のもと上下二局の議政局により内憂外患の時期を乗り切る方策を模索し、西郷隆盛や徳川慶喜への働きかけを行うなど、東奔西走の活動をしました。しかし、明治維新直前の慶応3年(1867 年)9月、京都において、弟子の薩摩藩士桐野利秋らにより暗殺されました。享年37歳でした。
 上田市(上田城跡公園内)に、赤松小三郎顕彰会が運営する赤松小三郎記念館があります。
⇒・上田市マルチメディア情報センター
赤松小三郎の紹介 - 赤松小三郎ヒストリー - 赤松小三郎 幕末の洋学者・議会政治の提唱者 (umic.jp)
 ・赤松小三郎顕彰会
赤松小三郎顕彰会 (google.com)
 ・NPO長野県図書館等協議機構/信州地域史料アーカイブ
テキスト目次 / 赤松小三郎書簡 実母宛 (adeac.jp)

(2)略年譜

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